トランクルームの魅力に迫る

住まいに関する話をしていて、「いま住んでいる家で好きなところはどこですか。 嫌いなところはどこですか」と訊かれ、ふいをつかれるような思いをしたことがある。
私は日頃から「中古住宅が好き」と宣言しており、転々とした県斜を含め、二軒移り住んだ持ち家も中古住宅を選んでいる。 なぜかというと、ほんとうに気に入る家を自分の目で見、感覚で感じながら選べるから。
でも、あらためて「どこが好き?どこが嫌い?」と訊かれると、「あれ、なにが好きなんだろう」と考えてしまったわけだ。 そのとき、「嫌いなところはない。
気になるところはあるけれど、それは手を入れていけばいいんだから」という答えが先にみつかった。 つぎに、「好きなところは、やることがいっぱいあるところ」という答えが口からするすると出てきた。
そして答えた当人なのに、「あ、いま、なにか大発見した」とどきっとしたのである。 たとえば、住みはじめる前のリフォームで、私たち夫婦は気になるところを自分の好みに変えている。
必要ない間仕切りの壁や収納スペースを取りはらって大きな一部屋にし、和室の掃きだし窓に障子がついていなかったから建具屋さんに障子を後づけしてもらい、 カーペットが敷きつめてあった床(クッションフロア)を檜の無垢板張りにし、洗面化粧台は彫なのでむかしふうの洗面ボウルを取りつけ……。 資金の問題もあるが、入居前にやらなければ作業がたいへんなことを中心に、「まあ七〇パーセントかな」程度に手を入れてよしとした。
そして、いま、心のなかには、「リビングと縁側の窓を木のサッシ(窓枠)に替えたい」「仕事部屋の壁をしっくいに塗り替えたい」 二年間一度も開けていない玄関のあかりとりの窓をはめ殺し(開閉できないように、つくりつけにする)に替えたい」 「寝室の奥をウォークインクローゼットにしたい」……といった「やりたいことリスト」がいっぱいできている。 つまり、すでに誰かが住みよくつくった家を私たちが譲りうけ、そのよさを活かしながら「もっとこうしたほうがいい」という部分に手を入れる、 そのプロセスが楽しくてしかたないのだ。

もとが悪ければ手の入れようがないけれど、もとが「気に入った」家だからこそ、少しずつ手を入れていく楽しみがある。 私の知人は家を新築したときに、「一年かけて設計して、吐き気がするほど考えぬいて決めたんだよ」「いざ住んでみると不満なところがいっぱい出てくるのよね」と嘆いていた。
私にとっては、家は1〇〇パーセントからはじめるものではなく、長い時間をかけて100パーセントに近づけるもの。 その時間が長ければ長いほど、やることがたくさんあればあるほど、家と私は親しいものになっていく。
家とはプロセス。 プロセスを楽しむのが家に住むということ。
だから、私には家が「古い」ことなんて、どうでもいいことだったのだ。 家とは、新築のときにはただの物にすぎない。
どんなに周到に計算された家でも、どんなに施主の意向を反映した家でも、できたときはただの物。 住み手が、心をかけて住んでいくことで、ただの物である家は、人を癒す住まいになる。
もう少し、考えてみよう。 もし、そうであるならば、心をかけて住まなければ、家はいつまでたってもただの物にとどまっているのではないか。

ただの箱、ただの入れ物。 現在、まわりを見まわすと、ただの箱でしかない家がそこここに見られる。
勝手に決めつけて中しわけないけれど、気配でわかる。 たいせつに住まわれている家には共通してあたたかい気配があり、あまりかまわれていない家には共通して空虚な気配がある。
私は、そんな家を見るにつけ、たとえどんなに立派な家であろうと、どんなに大きな家であろうと、家がかわいそうになる。 住み手を得られなかった家は、かわいそうだ。
でも、住み手のせいだけではない。 住み手がかかわることを拒否しているような家が増えてきているせいもある。
たとえば、メンテナンスフリーをうたう家。 壁が汚れない、床が傷つかない、風呂場にカビが生えない。
二十四時間換気だから、空気が汚れません。 高気密高断熱だから、窓を開けないでください。
ほら、らくちんでしょう?それはつまり、家をほうっておけ、と言っているようなもの。 ほうっておいてもいい、という価値観を、私は肯定することはできない。
それはらくではあっても、豊かではない。 また、たとえば、設計者がいたれりつくせりで考えつくした家。
住み手が自分なりに住みこなす余地が残されていない家。 いくら設計者の知恵がしぼられていても、その家に暮らすのは住み手なのだ。
人には人それぞれの癖があり、やり方がある。 ある人にとっては快適でも、ある人にとっては不快なこと、またその逆の場合、いくらでもある。

家に、住み手の癖を受けとめる幅がなければ、住み手にとってはいつまでも住みにくい家だろう。 住み手のやり方で工夫する余地がなければ、住み手がなにからなにまで家に合わせて暮らさなければならなくなる。
ああ、でも。 そんな家をよろこんで選ぶのは、やはり住み手なのだ。
らくちんであり、しやれていることを優先して、自分からかかわることを拒否しているのは住み手自身。 日々の暮らしで手を動かすことを「めんどうくさいこと」「しなくて済ませたいこと」だとみなして、 手を動かすことからもたらされるよろこびをないがしろにしているのは、住み手自身。
ハウスメーカーや不動産業者のつくる家から、住み手がかかわる余地がどんどん削られていくのは、そんな住み手が増えているからなのではないか。 それを、技術の進歩や住環境の充実、住宅デザインの進歩といったきれいごとにしてはいけない。
自分の手を動かして、自分の身を養う。 自分の体を動かして、自分の身のまわりを整える。
そこをなくしては、技術もデザインも人を堕落させるだけ。 家があなたに要求する手の作業にちゃんとこたえていくことで、あなた自身が豊かに生きられるようになるのではないだろうか。
それは、もしかしたら、家を建てるときからはじまる話なのかもしれない。 以前、ハウスメーカーの住宅展示場に行ったとき、中年の男性営業マンとゆっくり話をした。
ウィークデイでひまだったせいか、営業の話ではなく、住宅についてのよもやま話が楽しかったのだが、その折にその人が言ったことが印象的だった。 「お客さまは家を買おうと思って展示場にいらっしゃるんですが、いろいろ家を見てまわるうちに、ぼーっとしてくるらしいんですね。
どの家もよく見えてきて、わけがわからなくなってくるようです。 それで、メーカーだけ決めて、あとはこのモデルハウスのとおりに、とか、任せます、とか、おっしやいます」

そうならないために、自分たちである程度のプランを持って来場してもらえると、営業としても話がしやすいのだけれど、という話だった。 家を選ぶ、家に住む、ということについて、私たちはあまりにもイメージだけでいるのではないだろうか。
家でおこなう具体的な作業、具体的な行動が、意識されていない。 それでも人は住み、生きていくことはできるけれど、それで「私は、たしかに生きている」と言えるのだろうか。
日本の住宅は平均二十六年で建て替えられるという。 ふつうに考えて、四十歳で家を建てたとして、六十六歳のときには建て替えるわけだ。

最近何かと話題のトランクルームの情報を確認できるサイトです。
プロが教える珍しいトランクルームの情報も多数ご用意しました。
より良いトランクルームのために、世界最高水準の情報量を目指します。